閑散とした休憩所のベンチに腰掛け、ボーっと窓の外を眺めた。



窓から見える街の景色が、どんどん夕焼色に染まっていく――

西日を受け、くっきりと影を伸ばしながら、燃えるようなオレンジ色と深く沈むような群青色に侵食されていく街並み。

この時間の風景はそれでなくても物悲しいというのに、人恋しさが募り募って、

ふと油断していると人目を憚らず大声で泣き出しそうなほど、気持ちが揺れる。心が叫ぶ。



結局今日も先生に逢えないまま、一日が過ぎようとしていた。



あーあ・・・、今日もこのままか・・・。

この建物のどこかにカカシ先生がいるはずなのになぁ。

どうしてこんなに逢えないんだろう・・・。



手にしていたホットドリンクの紙コップが、一度も口を付けずに、すっかり冷え切っている。

いつもだったらあんなに待ち遠しかった夕暮れからの自由時間も、今となっては時間を持て余すだけで、どうしていいのか分からない。




「・・・ふぅ・・・」



もう、何日逢ってないのかな。・・・カカシ先生は平気なの? 逢いたいって思ってくれないの?

逢えなくても全然平気なくらい、私の事飽きちゃったの? 嫌いになっちゃったの・・・?



任務でもないのにこれほど逢えないのは初めてで、しかもあからさまなほど避けられていて、

だからこそ、私はどうすればいいのか完全に途方に暮れていた。

動けない――  

自分からは怖くて動き出せない。

いろんな可能性を考えて考えて考え過ぎて、そのどれもこれもが全部悪い結果に繋がってしまって、

積極的に私の方からカカシ先生に連絡をとる事が、怖くて怖くて出来なくなってしまった。



先生・・・、カカシ先生・・・。お願いだから私の前に現れて・・・。

カカシ先生――








「こら、ぶーたれサクラッ!」

「きゃっ!」



突然、耳元で聞き覚えのある声が響き渡った。

びっくりして振り向くと、目に眩しい金色の髪が、夕陽を受けてキラキラ輝いていた。

腰に手を当てニッコリ笑うその顔も、羨ましいくらい光り輝いている。

綺麗だね・・・。堂々と自信に溢れていて・・・。

笑顔の眩しさに圧倒されて、思わず目を細めた。それでも彼女の魅力に見惚れてしまう。

・・・私にもこんな魅力があったら、カカシ先生に嫌われなかったのかなぁ・・・。

元気よく見下ろしてくる視線に、辛うじて弱々しい笑顔で応えた。



「いの・・・」

「なんて顔してんのよ。しかめっ面のデコリンなんて目も当てられないわよー」



ちょんとおでこを突っつかれる。

明るく覗き込む瞳が、優しく励ますように微笑んで見えた。

ただそれだけなのに、泣きたくなるほど嬉しい。薄氷のように脆い心が、堪らず、パキン・・・と微かな音を立てた。



「そう・・・だよね・・・。目も当てられないよね・・・。あはは・・・」

「最近元気なさそうじゃない。・・・もしかして、彼氏と喧嘩でもした?」

「んー・・・」



これって、喧嘩なのかなぁ・・・。

普通、喧嘩って、どうして相手が怒ってるかとか相手はこうしたいけど私はこうしたいとか、ある程度分かるものだよね。

ぶつかり合っていても、互いの意思の確認は出来ている。

でも今の私には、カカシ先生が何を考えていて一体どうしたいのかさっぱり分からない。

私の想いだけが一方通行になっていて、カカシ先生の想いがどう揺れているのか全く理解不能で・・・。

でも、それを自分から確認しにいくのが怖くてたまらないんだ。

どうしようもない意気地なし。

これって、実は喧嘩以上に質の悪いものなのかもしれない・・・。



ポツンポツンとこれまでの経過を話してみた。

「あのね・・・。実は・・・」

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一通り話し終えたら、いのが思いっ切り呆れ果てていた。



「サクラァ・・・、あんた、馬鹿?」

「な、何よ。急に・・・」

「はぁ、全く・・・。なぁに、ぐちぐち悩んでんの? そんなのさっさとカカシの家に行って、きっぱり説明してくりゃ済む事じゃないの」

「・・・そう・・・かな・・・」

「そうでしょうよ! だって、カカシが勝手に誤解してるんでしょ? 悪いのはアイツじゃない」

「う、うん・・・。そう・・・かもしれない・・・けど・・・」

「さっさと気付いた時に説明しちゃえばよかったのに。ほらほら、悩んでる暇があるなら、おっちょこちょいの彼氏の誤解を、

 一刻も早く解いてあげること。・・・ひょっとして、『呼ばれてない時は来るな』とか言われてんの?」

「そんな事はないよ・・・」

「じゃ、堂々と行ってきなさい。あんた達一応付き合ってんでしょ? なにつまんない遠慮してんのよ」

「勝手に行っても、いいのかな・・・。迷惑にならない・・・?」

「はぁ? そんなの良いに決まってんじゃない。彼女の特権でしょうが。鍵だって預かってんでしょう?」

「うん・・・」

「なぁに? もしかして、行くのが怖いとか?」

「そ、そんな事ない・・・!」

「ふふふ・・・、じゃぁ、こんなところでイジイジ悩んでないで、さっさとカカシん家行って誤解を解いてきなさいって。

 全部、あんたの気にし過ぎ。まぁーったく、普段は気ぃ強いくせに、肝心な時になると怖気づいちゃうんだからー」



「あははは・・・」 あっけらかんと笑い飛ばされた。

あまりに見事な笑いっぷりに思わず呆気に取られ、そして馬鹿馬鹿しいくらいに気が抜けてしまった。



そうか・・・。私の気にし過ぎなのか・・・。



ギリギリの崖っぷちに追い込まれていた気持ちが、一気に吹き飛んだ。

急速に目の前が明るく開けて、自分のとるべき行動がはっきり見えてくる。

先ずは、カカシ先生の誤解をちゃんと解きほぐす事。私に後ろめたいものはないんだから、堂々としていればいい。



そうだよね・・・。先生から誘われるのを待ってばかりいないで、自分から進まなくちゃ。

たったそれだけの事なのに、もう何日も悩んでいたなんて・・・。あーあ、何やってんだろう・・・。



いのの笑顔が間違いなく私に勇気を分け与えてくれた。

てへへー・・・と情けなく笑って、冷え切ったカフェオレを一気に飲み干していると、「あ・・・、ほらっ!」と、いのが廊下の一画を指差した。

「ん・・・?」 つられるように視線を移すと、少し猫背気味の見覚えある銀髪が向こうから歩いてくる。



「ほらほら、チャンス到来!」

「う、うわぁ・・・!」



いのに、ポン!と背中を押され、軽く廊下に弾き飛ばされた。

気持ちが軽くなる。いのの元気が私の中に溢れてくる。

ニヤニヤしながら小声で「がんばれー」って応援してくれる、いの。

ありがとうね。うん、頑張ってみる。



気持ちが軽くなったら、足取りも軽くなった。

大丈夫、もう吹っ切れたよ。

カカシ先生に逢わなくちゃ。

逢って、自分からちゃんと説明しなくちゃ。



「カカシ先生ぇー!」



人目も憚らず大声で呼び止めた。

ビックリ顔のカカシ先生がこっちを向く。また困った顔をしているけど、もうその手には乗らないよ。

すぐにでも、先生の頭の中の変てこな勘違いを解いてあげるからね。



「サクラか・・・」

「ちょうど良かった。あのね・・・、今日、先生の家に行ってもいい?」

「今日か・・・。今日はちょっと・・・」

「・・・じゃあ、明日は? 明日はどう?」



強引にでも約束を取り付けなくちゃ。いつもカカシ先生がやっているように。

ポケットに仕舞われたままの両腕に軽く掴まりながら、必死におねだりを繰り返す。

困った顔をしてるけど、きっと先生は私の我儘を笑って許してくれるわ・・・。

『しょうがないねぇ・・・』って呆れた振りをしながら、それでも私の我儘を聞き入れてくれるはず。

そうだよね。カカシ先生――









「・・・・・・」

「カカシ先生・・・?」

「・・・・・・ごめん・・・」

「・・・・・・?」

「・・・・・・」

「・・・何・・・?」

「・・・・・・あのさ・・・・、オレ達・・・・・・暫く、逢うの止さないか・・・?」

「・・・え・・・?」

「・・・・・・少し・・・独りに・・・・・・、してほしいんだ・・・」






独りに・・・してほしい・・・?

意味が・・・、全然分からないんですけど・・・。






「・・・どういう・・・意味?」

「どうしても・・・、考えたい事があって・・・・・・。それで・・・」

「考えるって・・・、何を・・・?」

「それは・・・」





僅かに目を逸らし、何か言い難そうに顔を歪めているカカシ先生を見て、ハッと思い当たる。





「もしかして・・・この前の事? ねぇ、この前のあのドレスの事? 違うの。あれは――

「そうじゃない!・・・そうじゃ・・・なくて・・・」

「・・・カカシ先生・・・?」

「・・・悪い・・・」






必死に何かを押し隠そうと固く目を閉じる姿が、まるで何かの痛みにじっとたえているようにも見えて。

心臓を鷲掴みされてそのまま捻り潰されるような猛烈な痛みが、身体中を走り抜けた。



こんな顔、見たくない・・・。

良くない事が起こりそう・・・。頭の奥で警告音がチカチカ鳴っている。

イヤダ・・・イキグルシイ・・・ ニゲダシタイ・・・ キキタクナイ・・・ キイチャダメ――








「・・・暫くって・・・どれくらい・・・・?」

「・・・・・・」

「私が、側にいたら・・・駄目なの・・・?」

「・・・・・・」

「考え事が終わったら・・・、また一緒に・・・いられるの・・・?」

「・・・・・・」

「・・・せん・・・せぇ・・・」

「・・・・・・くても・・・いいよ・・・」

「え・・・?」

「いつまでかかるか・・・分からない・・・。だから・・・、オレの事、無理に待たなくても・・・いいよ・・・」

「・・・・・・」

「忘れてくれても・・・、構わない・・・から・・・」













先生の言葉が頭の上を素通りしていく。

今・・・ 何て言ったの・・・ カカシ先生・・・









急激に目の前の風景から、色が失われた。

先生の言った言葉がグルグルと頭の中で渦を巻いている。

聞き間違い・・・だよね・・・。私の勘違いだよね・・・。

待たなくていい・・・? 忘れてもいい・・・?

信じられなくて・・・、あまりに馬鹿馬鹿しくて・・・、笑っちゃうじゃない、カカシ先生。

そんな馬鹿げた冗談、よく思いついたわね。






「何・・・、何言ってるの? カカシ先生・・・」

「・・・・・・」

「嘘・・・だよね。冗談だよね。ねぇ、そうでしょ?」

「・・・・・・」

「私の事、嫌いになっちゃったの? もう嫌になっちゃったの? ねぇ・・・、どうして黙ってるの?」

「・・・・・・」

「分かんない・・・、分かんないよぉ・・・」

「サクラ・・・」

「どうして・・・どうしてそんな事言えるの・・・?」






身体がブルブルと震え出す。悪い熱病に罹ったように、止めても止めても、どうしても震えが収まらない。

ビリビリと手足を引き千切られるような痛みが走って、思わず、呼吸の仕方も忘れてしまった。



嘘だって言って・・・。冗談だって言って・・・。

「ちょっとからかっただけだよ」って笑いながら言ってみてよ・・・。

それなら、「もう・・・!脅かさないでよ」って怒った振りして許してあげるから。

全部笑い話にして、すっかり忘れてあげるから・・・。

だから・・・、ねぇ、今すぐ言って・・・! ねぇ、早く!






「せん・・・せぇ・・・」

「・・・・・・・・・」



心が悲鳴を上げすぎて、続く言葉が見付からない。

ボロボロと、涙だけが勝手に後から後から落ちてきた。



「・・・ぉ・・・して・・・、ねぇ・・・、どぉ・・・し・・・て・・・?」

「・・・・・・・・・」






これは・・・、夢なの・・・。

私は悪い夢を見ている最中なの・・・。

あぁ・・・、きっとそうだ・・・。

本当の私は今頃ベッドの中で、隣にはカカシ先生が眠ってて、目を覚ませばいつもの先生の笑顔がすぐそこにあって、そしてそして――






クシャ・・・






慣れ親しんだ大きな手が、私の髪を弱々しく掴み取った。



駄目だよ・・・。

夢なんかじゃない。この感触は、夢なんかじゃない・・・!







「う・・・うぅ・・・っくう・・・」



声を立てまいと頑張ったけれど、やっぱり無理だった。

食い縛った歯の隙間から、どんどん嗚咽が漏れ出して止まらなくなる。






どうして、こんな事になっちゃったの・・・。

どこで、大きく道を踏み外しちゃったの・・・。

ただ、ちょっとした好奇心で、あんな格好をしただけなのに。

一度着てみれば、もうそれで満足だったのに。



「どぉ・・・して・・・・・・」

「ごめん・・・・・・。サクラが悪いんじゃない・・・」



ポツンと小さく呟くと、淋しそうに笑って、スッ・・・と私から離れていってしまった。



「・・・いや・・・」



本当に・・・ 本当に行っちゃうの?

私を置いて・・・。

嘘でも、冗談でもなくて、本当に私から離れて行っちゃうの・・・?

あんな服、着なければよかった・・・!






「いやぁぁぁぁぁぁーーーー!」






どんなに祈っても、どんなに願っても、決して振り向かれる事のない大きな背中。

どんどん小さくなってしまう・・・。

どんどん遠くなってしまう・・・。

本当は、すぐにでも追い縋りたい。

怒られても、詰られてもいいから、その身体に縋り付きたい・・・のに・・・。

カカシ先生の背中が、はっきりと私を拒絶している――








クラ・・・



突然、目の前が真っ暗になった。

廊下が、天井が・・・、ぐにゃぐにゃに歪んで見える。

猛烈な眩暈と吐き気に襲われ、とても自力で立っていられそうにない。

思わず頭を抱え歯を食い縛りながら、その場にしゃがみ込んでしまった。



「サクラ・・・!」



ベンチで見守っていたいのが、急いで駆け寄ってきた。

真っ青になってオロオロとうろたえながら、私を抱き起こして介抱してくれる。


「・・・だ、大丈夫・・・?」

「・・・はは・・・。何やってるんだろうね・・・、私ったら・・・。こんな廊下の真ん中で、みっともなく愁嘆場演じちゃって・・・」

「・・・サクラ・・・」



もしかしたら、薄っすらとこういう未来を予感していたのかもしれない。

あぁ・・・、だから、あんなにも確認するのが怖かったんだ。

自分からこの未来を引き寄せてしまうのが、怖くて怖くて堪らなかったんだ――






何とか落ち着かせようと、懸命に背中を撫でてくれる温かい手。

小さくて、柔らかくて・・・。

でも・・・、ごめんね、いの。

私が本当に欲しいのは、この手じゃない・・・。

いっそこのまま、石にでもなっちゃえばいい。

そうすれば、こんな絶望的な気持ち味わわなくて済む――





「・・・ふぇ、ぇ・・・えぇ・・・ぇ・・・」

「サクラ・・・・・・」

「・・・もう・・・ダメ・・・なの・・・かな・・・。私達・・・」

「・・・そんな事・・・」

「もう・・・もう・・・」






だって、あんなに拒絶されたら・・・。

あんなにはっきりと突き放されたら、私、一体どうすればいいの・・・。

誰か教えて。



私 これから どうすれば いいの ――